プロファイルなどなど



・生まれた年:1954年8月生まれ、乙女座
・生まれた所:福岡県行橋市



1章
無線歴
1.1 ラジオ小僧
 確か小学校5年のときだったと思うが、友達がゲルマラジオを作って学校に持って来た。それを見てラジオを作りたいと思った。友達への対抗意識もあったかも知れない。 でも、そのラジオは半キットであった。半キットなる言葉があったかどうかは分からないが、雑誌(初歩のラジオや模型とラジオ)の中に厚紙で簡単な工作をすページがあり 厚紙が本に製本されていた。部品は雑誌社へ注文して取り寄せる方式であった。つまり、まず雑誌を入手しなければならない。 ラジオを製作して持って来るころには、雑誌は店頭には無く、それと同じものを作るのはあきらめざるを得ないのであった。
 しかし、そんなことではメゲない。その本を友達から借りて回路図を書き写した。今で言うμ同調方式である。μと言うよりバリL式の方が合っているかも。 ボビンに巻いたコイルの一面をサンドペーパ(紙やすり)で線と線がショートしない程度に少しだけ被覆を剥がし、そこに導線をスライドさせてバリLとする方式である。
 原理が分かったので早速部品集めを行った。コイルに巻くエナメル線、これは当時、近所の電気店に売っていた。ボビンには竹の筒を使った。田舎だったので竹の入手には困らなかった。 重要なのはゲルマニュウムダイオードとクリスタルイヤホンであった。母親に頼んで町から買ってきてもらった。これらの部品がそろったので製作に入ったが、コイルの上を導線をスライド させる為には、コイルの固定と導線を一点に固定(と言っても回転できるように)しなければならない。かまぼこ板では小さ過ぎる。そこで父親が趣味で石の土台を製作していた材料の板 を失敬して土台にした(後で怒られた)。本の製作例ではダイオードやイヤホンの接続点はネジ止めだったが、板の上ということもあり、釘を立てて線を巻き付けることにした。
 コイルの上をスライドさせる導線は銅線では無く、針金(鉄)であった。アンテナはビニル線を電気スタンドのコードに巻き付ける方式とした。 針金のスライダをコイルの上をゴリゴリスライドさせると・・・・。聞こえた!!。何か音が出てきた!!。自分で作ったものがうまく動作して音が出た時の感動は素晴らしいものである。(昔ラジオ少年の方はご理解頂けると思うが)
 今考えると竹の太さ15mmくらいに0.3mmくらの線を巻いているので短波帯だったかもしれない。かの7MHzあたり(当時だと7Mc)の大陸から放送だったと思われる。
 かくしてラジオ小僧のできあがりである。

1.2 ラジオ少年
 小学6年でゲルマラジオキットを買ってもらって製作して、ようやく中波のいわゆるラジオ放送を聞くことができた。これはμ同調方式であった。坪型コイルにコアを出し入れするタイプであった。
 中学1年で1石レフレックラジオを部品を買って製作した。バーアンテナコイルにポリバリコンの方式である。その後やはり部品を買って2石レフレックスラジオを製作した。
 中学2年で6石スーパーのキットを買って製作した。このころはラジオ少年中間がいてラジオ作りに励んだ。
 学校では当時3球ラジオの製作を授業でやっていたので、部品が多数あった。クラブ活動として技術部に入部していたので、部品は使い放題であった。
 ある時部品を寄せ集めてインターホン(真空管式)を製作して、校内の放送用スピーカーに繋ぎ込んだ。当時各部屋には放送用スピーカーが設置されていて、すべてパラに繋がっていたようだ。そこで技術部の部屋にあるスピーカーの線にインターホンを繋いだのである。
 すると音楽室でピアノの練習をしている音が聞こえて来た。「やーい、へたくそ」などとこちらから音声を送った。「うるさい」と答えたので、「うるさいだとぉ」などと返事をしていると、そのうち「えっ!なんでこちの話が聞こえてるの?」と不思議がった。こっちは得意になり「全部きこえてるぞ!」としゃべっていた。
 ところが、職員室にもスピーカーがあり、こちらのしゃべったことが全て聞こえていた。後でこっぴどく叱られた(やれやれ)。

 そんなことには懲りずに、友達と通信するために真空管で27MHzトランシーバを製作した。と、言っても技術も無く、ただ本で見た回路をまねて作ったので、回路はそれなりに出来たが、アンテナとのマッチングが全く取れてなかった(今思うと)。同軸ケーブルなんて無い(入手できない)のでただ数メートルのビニル線をアンテナ端子へ接続しただけだった。波長とかも全く考えてなかった。そんなもので電波が飛ぶはずもなく(100mくらいは飛んだかな)、お互い2kmくらい離れていたが全く通信できなかった。今なら、ダイポールアンテナに同軸で、マッチング用にバリコンなどを入れて、何とか飛ばせる自信はあるが。

 無線とは全く関係ないが、この当時の思い出として書いておく。(こっぴどく叱られたので)
 技術部には私と同級生のU君(上の27MHzトランシーバの相手とは違う。トランシーバの相手はT君)。先輩(3年生)のMさんとHさんがいた。
 技術部の部屋は学校の技術の時間で使う「技術科室」の奥の機材を格納する部屋だった。なぜかその部屋の隅に、作りかけの椅子んの残骸がうず高く積み上げられていた。技術の授業で生徒が製作したものらしいが、未熟な技術なので完成に至っていない。座ると壊れそうな椅子である。それが捨てるに捨てられないのか、山のように積み上げられ、天井に届いていた。
 大げさでなく、本当に天井に届いていた。じつはこれが災いする。
 この椅子の山を登ると天井にたどり着くことに気付いた我々4人は、そこの天井板を外すことにした。外した所から天井裏へ入り天井裏を探検した。木造校舎なので、天井裏は結構広かった。校舎の構造は、「技術科室」と「家庭科室」が設置された、別棟の木造平屋建てだったので、部屋から天井裏へ入ることができた。
 ある日、「家庭科室」に女子生徒がいた。「家庭科室」は体育時間の更衣室にもなっていた。チャンスと4人で天井裏へ、先輩は手にハンドドリルを持っている。「技術科室」なので道具はそろっている。更衣室ならぬ家庭科室の上にたどりついた。先輩(MさんだったかHさんだったかは忘れた)がドリルで天井に穴をゴリゴリと開けた。ドリルを引き抜いたら、下から「だれか居るの!」と叫び声が。「見つかった!」一目散に技術科室へと逃げ戻った。
 後日こっぴどく叱られた。証拠は無いが状況証拠満載だった。慌てて天井板を戻すときに破損していたのである。「この椅子を登ったのかぁ、あぶねえなあ。」確かに今にも崩れそうである。
 程なくして椅子は撤去された。
 後日聴いた話で何故すぐに気づかれたか分かった。ドリルで穴を開けた時、真下に女子生徒がいて、切粉が首の所に落ちたたため、上を見たらドリルが引っ込むところが見えたそうである。
 もう数センチずれていれば・・・いや、失礼。

 27MHzトランシーバはT君と製作した。当時は単球式や2球式のトランシーバの記事があったので回路は分ったが、実際の部品配置やコイルの大きさなどはよく分かっていなかった。コイルを作るための銅線が入手できなく探していたが、あるときアンテナを張るためだったか何だったか忘れたが、屋根に登ったときに電線工事の残骸と思われる銅線(被覆つき)があったので、拾って利用することにした。若干太目ではあったが他に無いので、被覆を剥がして使うことにした。当時は導線の被覆は歯で剥いていた。ニッパーなど持っていなので大概のひとは歯で剥いていたような気がする。
自分も歯で剥いていたので、何も考えずに歯で剥いてコイルに利用した。
ところが、それから数日後、目まいがして寝込んでしまった。風邪かなと思っていたが目玉焼きを食べようとすると吐き気がするので変だなと思っていると、直に皮膚が黄色くなり、白目も黄色くなってしまった。黄疸であった。
 1ヵ月ほど自宅療養して(当時は医者が往診してくれていた)もさほど改善しないので、入院と相成った。入院して毎日点滴を打ちさらに1ヵ月して退院した。中学2年生の3月から3年生の4月まで、学校を休んだ。3年生の5月から出校した。
 それから勉強の遅れを取り戻すべく一生懸命勉強してなんとか進学できた。親は留年(義務教育にあるのかどうか分からないが、学校の先生と相談してたらしい)せずにすんだ。
 今思うと、屋根で風雨さらされた銅線に緑青が発生していたのではないかと思う。歯で被覆を剥がしたので、思いっきり緑青を食べてしまったのであろう。
トランシーバはその後出来たが、前述のように思った程電波は飛ばなかった。おもちゃの27MHzトランシーバを持って自転車でどこまで聞こえるか走り回ったが100m四方程度だったと思う。


1.3 アマチュア無線
 高専の機械工学に進学した。電気工学ではない。実は電気工学の虚数だかベクトルだかが嫌で機械工学したと思う。とは言いながらラジオを作っているのだから、なんだかなあ・・・である。
5球スーパーを改造して7MHz(7Mcと言っていた)が受かるようにした。5球スーパーを改造したと言っても、友達に電池管4球ラジオのシャーシー(球なし)をもらって、トランスレスの真空管をさして作り直したものである。中間周波増幅の部分が密集している(と言うか部品が小さいので)ために中間周波が発振気味であった。そのおかげ(?)でSSBが復調できた。当然AMも受かる。7.1MHz辺りに(当時は正確な周波数は分らなかったが)JA10(ジェイエイテン)なる局が出没していた。後に違法局だと分かった。でも聞いていると普通にJA〇(1桁の正規局)と交信していた。知らない局もいたのだろう。今のようにネットなんて皆無だし、周知されるのに時間がかかったと思われる。
 聞いていると電波を出したくなるのは普通の流れである。初歩のラジオやラジオの製作などの本を読みあさり勉強を始めた。ある日本屋でラジオの製作(だったと思う)の付録に電話級(今の4級)の受験申請書が付いているのを発見して、直ぐに購入申請した。
 受験は電波管理局がある熊本で行われていたので、熊本まで受験に行った。めでたく合格して電話級のライセンスを手にした。
 でも、これでは電波は出せない、局免許が必要だ。いやそれよりも送信機が必要だ。どうにか送信機、またはトランシーバを作らなければ。当然というか無線機なんかは買ってもらえるはずもなく、部品すら買ってもらえそうになかった。世の中はSSBの時代になっていたので、作るのであればSSBである。当時はクリスタルフィルタが高価なので、フィルタを使わない方式が雑誌にのっていた。PSN方式である。雑誌に載っている一番簡単な方式で製作することにした。ファイナルは5AQ5である。これは近所の電気屋さんから古いテレビを1台もらった中から調達したものである。トランスレスなのでヒーター電圧が変である。他にも3CB6や3AU6とかもあった。
 CQ誌には色んな部品の広告が出ていて、そこで9MHzのクリスタルを入手して(1個だけ)局発としてPSN回路を組んだ。今ならクリスタルを多数買ってフィルタに使うのだが、なにせ当時は無銭家だったので。
 9MHzのPSNはできた(と思っている)。出力をダイオードで整流してテスタを繋ぐと、マイクで喋った時だけ針が振れる。喋った時だけ針が振れるのだからSSBであろうと思った。しかし、そこから目的の周波数へコンバートできない。そこで頓挫してしまった。なぜだか今も分からない。残骸も残っていない。

でも受信はできていた。21MHzのトランシーバとした。IFは真空管3CB6を使った。トランスはST管5球スーパーから取り出した古いやつで、スピーカが電磁コイルのダイナミック式というやつなので、B電圧用出力電圧が360Vの両波整流タイプだった。これをダイオードで両波整流したので、B電圧は400V以上あった。IFの調整時にうっかりプレート側にさわって感電して転倒した覚えがある。(やれやれ)。

 結局9MHzのクリスタルフィルタを小使いをはたいて買ってしまった。SSBジェネレータをトランジスタで作成、トランジスタファイナルのシングルバンドとして製作して、局免をもらった。ライセンスを取ってから1年が経過していた。コールサインはJH6となっていた。ありゃ?JA6じゃないの?後にJAの次にJHとなったことを知った。ライセンスを取ってすぐに局免とっていればJA6だったかもしれない。


1.4 50MHz
 高専の修学旅行の小遣いの余りで50MHzトランシーバを買った。ファイナルが壊れていて電波が出ないし音も出ないと言う井上電機(ICOM)のFDAM3である。小倉のジャンク屋で1万円位だったと思うが定かでない。持ち帰って早速調べたが音が出ないのはスピーカの線が切れていただけ、電波は問題なく出る。何かの勘違いだったのかもしれないが、ラッキーであった。
 これで50MHzFMで夜な夜なローカル局とラグチュウーしていた。変調はAMとFMの両方できたが、FMの復調器はなくFMを受信するのはスロープ検波としていた。送信VFOと受信VFOが分かれていたので出来た芸当だ。今時そんなトランシーバは無いが。無線機を操作している感は十二分に味わえた。
 でも、このラグチュウーは電池運用だった。ラグチュウー相手のOMに定電圧電源の回路を教えて戴いた。無線の会話で回路を伝えるのである。これで聞き取った回路図を元に部品を買って来て電源を製作して、電池の減りを気にすること無くラグチュウー出来るようになった。

1.5 2アマ
 シングルバンドのトランシーバを作ったが、やっぱりオールバンドにしたいと欲が出てきた。CWのトランシーバの方が簡単かなと思って電信級のライセンスを取ろうと思い立った。まだクリスタルフィルターを買う前であるが。当時は電信級と電話級は分れていて、電信級では電話を送信できなかった。現在は3級を取れば4級も含まれるが。
モールス受信練習テープ(カセットテープ)を買って来て受信練習した。でも、直ぐに受信できるようになった。どうせならと2級用のテープを買って来て受信練習を始めた。しばらく時間はかかったが、何とか受信できるようになった。目途が付いたので次にキーを買って来て送信練習をした。当時は送信試験もあったのだ。
 モールス(CW)の送受信練習と並行して工学と法規を勉強した。当時は選択式ではなく記述式だったので、うる覚えではだめで、ちゃんと理解しておかないと問題がひねられると答えられないので、理解するのに苦労した。
 いよいよ2級を受験した。試験は2日間だった。初日が工学と法規の筆記試験。2日目が受信と送信の実技試験であった。送信試験で出された電文をキーで打つのであるが、緊張していたせいか、ミスってしまった。そこで訂正符号を打って再送信したのだが、送信し終わって試験官に訂正符号が7短点しかなかったよと言われた。緊張で訂正符号も間違ったようだ。でも、合格点だよと言われて安堵した。なんだか試験に合格した気分になってしまった。受信や筆記試験の点が分からないのにである。
 後日合格証が送られて来た。このときは嬉しくて夜も眠れないほどであった。でも免許証の申請をしなければならなく、書類をそろえて申請して2級の免許証を手にしたのは1977年2月であった。
 その直後関東へ転勤となり、PDP−11と出会ってしばらく無線はお休みとなった。


1.6 1アマ
 2アマについて書いたので、ついでに1アマのことも書いておこう。時期はかなりずれるが、時系列で書いても話がまとまらないので(もともとまとまって無いかもしれぬが)。
ある時期に無線を再開してしばらく経ってからであるが。ことき既に結婚して2人目の男子ができたばかりで、無線でマイクを使って声を出すのを控える目的もあり、QSOはCWにしていた。QSOの90%はCWであった。CWに自信がついていたので、若いうちに1アマを取っておこう考えた。その後簡単になるとは予想だにしなかった。
 この時期のCW試験は受信のみになっていたので受信練習だけでよかった。とは言っても実際のQSOは送信もしなければならないが、受信ができれば送信はそれほど難しくは無い。そういう理由で送信試験が無くなっていた。とくに難しいのは和文受信であった。和文テープを購入し、ひたすら受信練習を繰り返した。書き取り練習で使ったA4の紙を積むと5〜6センチ程になったころ、ようやく遅れ受信ができるようになった。
 早速1アマを受験して免許証を手にしたのが1992年12月である。
その後DXばかりやっていたので、今では和文をすっかり忘れている(とほほ)。



つづく





2章
コンピュータ歴
1章が終わっていないが、1.3章の高専でコンピュータを使い始めたので、平行して書いて行こうと思う。

1.1 フォートラン
 高専の3年だったか4年だったかいまいち思い出せないが、フォートランの授業があった。
 I=I+1
 なんて書くのだが、友達は数学的におかしいと言っていた。たしかに数学としてみればおかしいが、無線をやっていたので、ロジック回路もあるていど理解していたので、1を足した結果をラッチし直すと理解すればなんのことはなかった。おそらく誰よりも早くプログラミングを習得したと思っている。これもアマチュア無線のおかげだと思っている。
 使っていたコンピュータは当時ミニコンと言っていた沖電気のOKITAC4300だったと思う。メモリ4kBを増設して8kBにしてあったと記憶している。単位を間違っているわけでは無いです。4kB(キロバイト)の増設です。プログラミングが楽しくなり、同様の友達とコンピュータのT先生の部屋へ放課後入りびたり、別の部屋(コンピュータ室)のミニコンを使い放題であった。ゲームを打ち込んだりして遊んでいた。
 ある時、授業で歯車の設計をして提出する課題が出た。これは一人ひとり別々の仕様で答えは同じでは無い。他人の設計を丸写しで提出できないように配慮されていた。歯車の計算はギヤ比や伝達馬力(パワー)などからギヤの大きさ歯数などを計算するのだが、パラメータが多いので、いろんなパラメータの組み合わせで最適なものを選択する。よってパラメータを変えながら何度も計算しなければならない。まさしくコンピュータの仕事である。
 プログラミングで遊んでいた自分は早速フォートランで歯車設計プログラムを作成してさっさと計算して課題を提出した。コンピュータで計算しました。と言うと課題を出した機械設計の先生も関心していた。まだ世の中にコンピュータなるものが一般的でない時代だったので。
 先生がプログラムを欲しがったので、作成したプログラムを渡した。
 しばらくすると、その機械設計の先生から呼ばれた。このプログラムは止まらないぞ。はい、そうです、データを何度も入れられるように、入力待ちへループさせています。と答えた。本当のことである。今では当たり前であるが。
 プログラムが止まらないとはどういうことかというと、当時の大型コンピュータはプログラムはカードにパンチし、1行1枚となって、プログラムの行数だけカードをそろえて、箱に入れて、大型コンピュータ室の窓口に提出する。コンピュータのオペレータがカードを機械(カードリーダ)にかけて、読み込ませて実行して、結果(プリント出力)とカードを返却窓口へ返却するという手順だった。
 当時、ミニコンでプログラミング始めた時は大型コンピュータは無かったがじきに導入された。でも、前述のように面倒なのでミニコンを使っていた。ミニコンはプログラムを紙テープで作成する。端末の前で自分で紙テープを読み込ませて、実行するとそのまま端末が入出力装置となった。入出力装置といってもただの電動タイプライタのようなものであったが。
 ギアの設計パラメータは端末から入力して、そのまま結果を印字して、また入力待ちになってパラメータ入れるの繰り返しで、最適な答えが得られたところで、ミニコンをストップさせる使い方をしていた。なのでプログラムを止める必要がなかった。大型コンピュータで実行するには、フォートランの教科書どおりに、STOP、ENDと書いて終了しなければならない。
 作成したギアの計算プログラムはSTOP、ENDが無かった訳では無い。無いとコンパイルエラーになるので書いてはあったのだが、STOPの前の行でGOTOで初めに戻っていた。
 どうやら、機械設計の先生は学会で学生が作成したプログラムとして発表したようである。そこで指摘を受けたみたいだ。先生に恥をかかせてしまった。一言いっていただければと思ったがあとの祭りだ。

1.2 アセンブラ
 就職してコンピュータの世界にどっぷりつかることになる。就職して間もなく関東へ転勤になった。仕事はソフト開発であった。
 仕事で使うコンピュータはPDP−11というミニコンであった。それともう1種類TMS9900というマイクロコンピュータである。用途に応じてミニコンやマイコンを適用した。
 PDP−11はメモリ4kBほどで、プログラムはアセンブラ言語で記述したが、コンパイルは別の大型コンピュータで行っていた。いわゆるクロスコンパイラである。TMS9900の方もアセンブラで、やはりクロスコンパイラしていた。

 趣味で8080を買ってきてボードに組み立てた。当時TK−80なるものが発売されていたが、とても高価で手が出なかった。秋葉原で格安8080ボードキットが売ってたので買って組み立ててみた。44ピンのユニバーサルボードに組み立てるもので部品キットであった。CPUはセカンドソースのTMS8080だったと思う。電源は+12Vと5Vで−5Vは基板上で作っていた。クロックを整流してツェナーで5Vにする回路だったと思う。メモリは256バイトだったかなぁ。DBIN信号をそのまま使っていて分離してなかったはず。つまりIOとMEMORYの分離ができてなく、常にMEMORYへアクセスしていた。なのでメモリーマップドIOとするしかなかったと思う。格安のキットだったので、その辺が妥協されていた。
 それを箱にいれてマイコンと言うかミニコン風にしようとアルミケースにLEDやSWを付けたものを作りはじめた。スイッチの配列はPDP−11/05を参考にした。奇しくもAltair8800やIMSAI8080によく似た顔になった。IMSAI8080スイッチはPDP−11のスイッチにそっくりだった。このスイッチを付けたかったが、入手できなくて普通のトグルスイッチにした。Altair8800のような顔になったのだった。
 でもこれは完成しなかった。なかなか部品がそろわなく、そのうちPC−6001を買ってしまった。



これはPDP−11/05の写真であるが、自分が使っていたのは、この写真の下半分の部分だけのものである。写真のタイプは基板を縦に入れているが、使っていたやつは基板を横にいれるタイプだった。なので写真の半分の薄さだった。そこにコアメモリ4kBを入れていたと思う。
パネルからピアノタイプのスイッチでIPLをパチパチインプットして実行させる。いわゆるブートストラップである。そのプログラムで中間ローダというプログラムを紙テープで読み込んで実行する。それがさらにシステムプログラム(目的のプログラム)を読み込むようになっていた。スイッチを入れただけでは動かないのは当たり前だった。

これがコアメモリ。黒い部分がコア(フェライトビーズ)でここに記憶する。
データを読み出すと消えるので、同じデータを自動的に書き戻すようになっている。書き込みは書くだけ。WRITEサイクルよりREADサイクルが長った。
3/18追記:コアメモリにプログラムを入れておくと、電源投入でそのプログラムをRUNできるようになる。


後にPDP−11/34になった。ピアノスイッチからテンキー(オクタルなのでエイトキー??)で入力できるようになった。


ある日なにげにこのキースイッチパネルの裏をみたらi8008が使ってあった。なんだマイコンで制御していたのかぁ。確かにTTLロジックだけではこの大きさには厳しいなぁ。
DECのサービスマンが来た時に、このパネル8008で制御してますねと聞いたら。「よく知ってますね」と言っていた。見れば分かるのだが。



1.3 マイコン
 パソコンではなくマイコンと当時は言っていた。PC−6001を買ったのは手ごろな価格でテレビに絵を出せるからであった。IOなどの雑誌にゲームが掲載されているのをせっせと打ち込んで、テープレコーダに保存していた。
 次にPC−6001mkUを買った。PC−6001は友達に売ってしまった。
 PC−6001mkUは喋ることができた。でも今のレベルからするととっても不自然なイントネーションであった(8ビットCPUなので無理もないが)。いわゆる機械が喋っているそのものであった。
 このマイコンにはRAMが64kB搭載してあった。雑誌にCP/Mの移植記事があったので、なんとか移植した。どうやって入れたか記憶があいまいだが、PC−6001に買った拡張BOXを使ったように記憶が残っている。BOXを入れてBIOSを手打ちして、それをFDDに書くのにはBOXを外さねばならなく、基本が電源を切ってはずすのだが、電源を切ると打ち込んだBIOSが消えるので、電源いれたまま勢いよく引っこ抜いたのは記憶に残っている。
 移植したCP/MでBDS−Cなどを勉強した。
 これも引っ越しで廃棄してしまった。当時はもう使わないと思っていたし、確かに使わないであろう。写真も気楽に撮れる時代ではなかったので、記憶だけしか残っていない。

1.4 マイコン(その2)
 仕事で使うマイコン(マイクロコンピュータ)がTMS9900から8086に変わった。当時一世を風靡したインテルのCPUに変えたのだ。
早速アセンブラでプログラムを組んだが、何だか動作が変。デバッガで確認すると減算時のキャリーの出方がPDP−11と違う、TMS9900とも違う。(PDP−11とTMS9900は同じ)
PDP−11は減算で桁下がり(借入)があるときはキャリーはOFFである。これは今考えると74181の動作そのもだが。8086は8080と同じで、減算時はキャリーはボロー(借入)となってONになる。演算や条件ジャンプのときにうっかりミスとなる。覚えるのに時間が掛かった。
 8086は採用したばかりなので、まだOSが無かった。PDP−11のリアルタイムOSを参考に8086用のOSを作成した。タスクは8本、タスクの優先順位は固定で若い番号が優先順位が高くしている。割り込みハンドラーとタスクスケジューラで構成された簡易なOSである。この時の知識で別項の「GPS同期発振器」のH8用OSを作成したのである。





つづく